昭和52年11月09日 朝の御理解
御理解 第33節
「お供え物とおかげは、つきものではないぞ。」
確かに金光様の御信心は、「お供え物とおかげは、付きものではない」と言う事を思います。言うならば沢山お供えをすれば、沢山のおかげを頂く少しのお供えなら、少しのおかげと言う様な事はないと言う事なんです。けれどもしばしば教祖の神様の御教えは、反対の事を教えておられる場合があります。反対の事と言うのは「そうしげしげと参ってこんでも良いぞ」と言う様に教えられるかと思うと。
それこそこちらがその気になって一生懸命にお参りをすると大変お喜びになり、同時に御徳を受けると言った様なところがございます。だからうかつに「参って込んで良いぞ」と言われるから、「あぁそうですか」と言うたらもうそれまでと言った様な場合がありますから、心して御理解を頂かなきゃいけない。この御理解もやっぱりそうです。「お供え物とおかげは附き物ではない」そんなら人間だれしも欲がありますから、少しばっかりお供えしといて、沢山おかげを頂きたい。
又はもうお話だけででも、おかげを頂きたい、やぁもう出来るならもう賽銭も、上げんなりにお参りして、おかげが頂けるならその方が好いとう。(笑)人間てものはそんなものですかね。ところがお話を頂いて行けば行く程に、段々最近のまあ合楽の信心の最高のところを行くと、親神様だから、いやそれが分かれば実感として判れば縋らずにはおられん、と言う願いの信心が最高、金光教の信心の最高峰だと、最高だ最高の信心だと。お礼を言うとくだけでおかげは頂く、お詫びに徹すれば神様に通わん事はない。
けれどもそう言う信心をだんだんふんまえて信心を進めておると、本当に天地金乃神様が、私共の言うならば親神様であると言う事が実感して分かる様になりますと、お参りもしなければおられないが、願わずにはおられないと言う事になって参ります。そしていよいよ大きくおかげを頂いて行こうと言う、大きなおかげの頂けれる事の為には、言うならば、結局いつも自分と言うものを空しゅうして、神様と金光大神と私共との、その関わり合いと言うものが、いよいよ密になって来る。
昨日、銚子市の大久保伊織と言う先生から、手紙が参っております。大変良い事が沢山書いてありますけれども、あんまり難しい字で書いてあるから、私共にちっと読めんところがあるけれども、「大坪先生の合楽示現の信心の行き道を思い、大坪先生、金光大神様、天地金乃神様の三位一体のことを心に浮べ、親神様が金光大神様によりおかげを受けられる様になり、金光大神様から御依頼されました。
立教神伝の神の切願が大坪先生の御信心、教祖金光大神が教えた事を間違いなく信行される所に、金光大神様は我が事神様も、もう神様も喜ばれ金光大神も幸せ、大坪先生も楽しいと三位一体、合楽の御祭事を遠く思いを馳せました。」と言う様な事が書いてあります。まあ言うなら天地の親神様も喜ばれ、金光大神も幸せ大坪先生も楽しいと、三位一体になっておられると言う事が有難いと言う事が書いて御座います。
神様も喜ばれ、金光大神も幸せ、大坪先生も楽しいとこう言う、そう言う一体感と言うか、天地の親神様と、私共が一つになると言う事が、お道の信心の理想であり、またそう言う、理想郷を目指して、お互い信心をさせて頂くのである。言うなら、親と子との交流であります。そこには親のものは子のもの、子のものは親のものと言う理が、そこに成り立つのです。
久留米の初代の御教えの中に、「人間の一握りはこれだけだけれども、神様の一握りはどれだけあるか分からん」「人の懐に手を突っ込む様な信心をせず、神様の懐に手を突っ込む様な信心をせよ」これは玉水の湯川先生のお言葉です。例えばまあ人の懐に手を突っ込むと言う事は、まあその泥棒かスリの様な風に聞こえるですけれども、また例えば商売人が、お客さんから儲かろうと言う様な、ケチな考えを起こすなと言う事。神様から頂くおかげを頂かなければと言う意味でしょう。
石橋先生は「人間の一握りはこれだけだけれども、神様の一握りはどれだけあるか分からん」そのどれだけあるか分からん、言うならおかげを頂くためには、言うならば人間の一握りと言うものが先ずは大切だと言う事になるのです。親のものは子のもの、子のものは親のもの、いわゆる三位一体一つだと。そう言う例えばおかげを頂くためにはです。どうでもその一握りがいる様です。
神様の懐のなかに手を突っ込むと言う事は、結局人間心を捨てて、神情に生きぬくことでしょうけれども、その神情の中には、言うならば欲もなからなければ徳もない、欲得尽くのものではない、我情我欲から生まれて来るものではない。言うならば真心である。そこから奉仕の精神が生まれて来る。その奉仕の心の中にやはりお供え物も入って来る。だからそれは奉仕であり。仕え奉るのであり。真心である。
またの御教えの中に、この神様は確かに寄進勧化は言われない。けども「氏子が真心から用へるのは神の比礼だ」と言う風に教えておられる。「氏子が真心から用いるのは神も比礼じゃが」とおっしゃっとられる。だからその神様の比礼を受けると言う事が、おかげを受けると言う事なんです。だからこの辺のところを、ただ言葉通りに受けておると、本当の信心は分からないと言う事になります。
いよいよ以て、合楽の信心はどう言う信心をさせて頂いたならば、その親神様と財布が一つである様なね、もえもんちゅう、神様の財布と私共の財布がもえもん、そう言う言うならばおかげも受けられるのが金光様の御信心。それには親と子と言う言うならば実感と言うか、親と子と言う信心がいよいよ分かって行かなければならない。お供えをするでも、自分のものをお供えしようとは思いよらん、神様のもの。
ある時に日田の堀尾先生が三代金光様に御初穂を奉る。御献備「御献備」と書いたり、「御初穂」と書いたり「奉」と書いたり色々ある。「金光様大体どう言う風に書いたが一番本当でしょうか」と言うてお伺いなさったそうです。そしたら「御初穂が結構です」とおっしゃったそうですね。だから私はその時意味が分からなかった。金光様のお言葉の意味が分からなかった。ところが「御初穂」と言うのは、言うなら御飯を炊くでしょう。朝御神飯をお供えすると、その大きな御飯の中から御初穂を奉るでしょう。
言うなら一切があなたの御物であると言うのです。そのあなたの御物の中から、少しばっかり御初穂の御神飯を奉る様に、その奉ると言う事やら御献費やらと言う事は、あなたのものを神様に差し上げとると言う様な意味になる、御初穂と言うのはあなたのもの全部あなたのもの、その中から御初穂差して頂いておるんだと言う意味だから、成程御初穂が結構ですと言う事になる。
だから御初穂のお供えが出来る様になったら、神様の言うならば神様と私共の財布を、一つにして使う程しのおかげが受けられる事になります。だから御初穂、堀尾先生にして「御初穂が結構であります」で、他の者がお伺いしたらそれは奉が良かろうと、おっしゃったかも知れませんですね。まあだあんたは我情があり我欲がある、まだお金何でん自分のものと思うとる、自分が働いて自分が儲け出した金と思うとる。
そんならやはり奉るが本当だ。けども堀尾先生の場合は、もうあなたは御初穂が奉れれる御信心を頂きなされなければいけませんよと言う意味が、その中に含まれていると言う様に、今は思います。その当時は分からなかった。ですから御初穂そう言う意味での御初穂を奉れる様になりましたらです。神様と私共が財布を一緒に使える様な、なら親と子がです。財布を一つにして、「要るだけ使っておけ」と親がくれる。使い終わったら、「こうして使いました」と、また財布を親に返す様なもの。
そこにはどうしてもだから、親子の言うならば心情と言うものが交流し出さなければ出来る事ではない。一切があなたの御物、一切があなたのお働き、神愛の中にあるものだと言う様な、高度な信心がいよいよ分からなければならないと言う事であります。私も段々おかげを頂いて、まあ少しばっかり、もう御初穂と書いて良かろうたる感じがする。それで私は御本部へお供えさせて頂くときにゃ、皆さんの御初穂全部を預かります。そしてその上の包紙に私は「御初穂」と書かして頂く事にしとります。
おかげで神様が(笑)財布を投げ出して下さる様な感じがする、いるだけ使うとけとおっしゃるような感じなんです。だから此処では、まだ御初穂と書けるのは私だけじゃなかろうかと言う風に思います。親子の情、親子の情と言うか、親子の心情と言うものがね、通い合う、そう言うおかげを頂くためには、どう言う信心をさせて頂いたら、そう言うおかげが頂けるかと言う事になります。
どう思われますか、一生懸命参るばっかり、一生懸命お話を頂くばっかり。縋らずにはおられない。頼まずにはおられない。私はこの事を、昨日一寸色々考えさせて貰って、此処で縋らずにはおられん、頼まずにおられんと言う、内容は一寸まだ本当じゃないでしょうけれども、高橋さんの事を思うたんです、もうそれこそそげな事まで、あなたお伺いせんでん、お願いせんでんと思う様な事まで願われます。
昨日「急に銀行から、思いがけない金をこれこれ入れて貰わんならん」と言うて来た。うっかりしておった。ですぐ電話が掛かって参りました。三回掛かって来た。一時間ばっかりの間に「もう今日もその金がどうにもこうにも出来ない」「そりゃお繰り合わせお願いしときましょう」ちゅうてまた二回目に掛かって来た。やっぱり同じ「お繰り合わせお願いしときましょう」ちゅう事で、そしたら三回目のもしもしがちっとばっかりこう明るい感じでしたから、おかげ頂いたわいな(笑)と違いますですよ。
あのお礼の時の電話とです、お願いの時の電話は(笑)、大体もう分かるおかげ頂いたわいな、それがあっちこっちから使うときなさいと言う金が、一緒に入って来る様なお繰り合わせを頂いたと言うのです、もう全然思いも掛けない、言うならばお繰り合わせを頂いたと、こう言うのです。もうそれはもう朝の御祈念あぁして参って見えて、一日の事色々お届けされて、また一遍下がられてから色々考えてあれもじゃった、これもじゃったと言う事は、もう逐一それこそお伺いがあります。
だから如何にもそれは、願わずにはおられん、縋らずにはおられん様な感じですね、ところが私は今日は参っておられる高橋さんに聞いて見ろうと思います。「あんたがあかしこお願いをしたりお伺いするのは、本当に願わずにはおられん、縋らずにはおられんからあげん願いよるとか」とそうじゃなかろうたる。そうなったらまちっとおかげ頂かにゃでけん。(笑)「お伺いをしたりお願いをした方がやっぱおかげ頂くけん、お願いしよると」と言うのと、縋らずにはおられんと言うのとは別なんです。
縋らずにはおられんと言うのはもう条件がないです。願わずにはおられん、縋らずにはおられん、これは自分自身がいよいよ無力であり、言うならば自分にゃ物は何一つとはない。皆神様の御物であり、神様にお縋りする他にないと言う。いわゆる我無力の自覚が出来て来る時に、縋らずにはおられん。願はずにはおられない。同時にお礼を申さずにはおられない。例えば私共まあ、私此処を出て一番近い所は善導寺ですけれども、善導寺に出らして頂く時に、私はしっかりお願いをして出ます。
願はずにはおられませんです。だからまた帰って来たならば、お礼を申し上げずには、無事に帰らして頂いたら、お礼を申し上げずにはおられない。ところがそう言うその実感が皆に無い。お願いもせずにつーっと出て行く。だから帰りがけも自分で行って、自分で帰って来たと思うからお礼にも出てこん。これは私の家族の物の場合なんかもそうです。若先生も外に出る時にゃ、お願いも何にもしませんでつうっと出て行きます。それけん帰って来る時も、つうっともう勝手口の方さん直接に直行いたします。
まあ呑気な信心と言えば呑気な信心、目が粗いと言えば目が粗いですけれども、それがせなきゃならんけんじゃいかんのですからね、私の場合には願わずにはおられん、縋らずにはおられない。だから縋って願って無事に帰って来たんだから、やはりまたここへ出て来て、お礼を申さずにはおられない。だからそう言う信心の稽古と同時にです。私はお願いをしておかげを頂いたと言う時、誰でもおかげを頂いてそれこそ、もしもしの声が変わる位に違う。
「おかげ頂ました」と言うのと、「まあだおかげになりません、まあだおかげになりません」と言う時とは、それは違うのですけれどもです。お願いをしておかげを頂いた時には有難い。だからお願いをして、言うならばおかげにならない反対の時、でも神様の御都合には違いはない。神様のお働きには間違いはないと分からせて頂いて、思う様にならなかった時にも、お礼を申し上げる様な心の状態が生まれて来ている。そう言う信心が繰り返されておるならばです。
もう必ず親子の言うならば情念にも似た様な、真一心の心が、神様と通う様になるです。この神様ちゃ本当に不思議な神様、有難い神様じゃと分かっただけでは親子の情念と言うものは育ちません。神様のお働きには間違いない。それこそ「親の意見と茄子の花は、千に一つ、万に一つの仇はない」と言う、神様のなされる事の中には、氏子が憎いからと言う様な働きは、爪の先方もないと言う事。
一切が言うなら氏子可愛いの御一念が、右と願っても左、左と願っても右と言う様な結果になるのだと。と言う様な信心が分かったら、右になろうが左になろうが、やはりお礼だけしかないと言う、そのお礼が言えれると言う事は、なら親だから無駄が無い。万に一つの仇があるはずが無いと分かった時です。親神様であると言う事が分かる。そう言う信心が分かったら、また分かりだしたら、願はずにはおられん、縋らずにはおられんと言う事になって来るのです。
昨日ある方に、信心しょって次々と難儀な事がばっかり起こって来る。どうしてじゃろうかと、信心が嫌に成るごとある。どげん説明して良いやら分からん。事実そう言う質問の例がいくらもある。それで私その方に申しました。「和賀心時代を繰り返し読みなさい」と私が言うてやりました。あれ程信心しござる。もう大坪さんのしこあれだけの信心が出けて、おかげ頂かんなら、神様もござるやらござらんやら分からん。私自身も思っておった。私がおかげ頂かんならおかげ頂く者はないと思うておった。
と言う位に一生懸命の信心させて頂いたけれども、次々ともうそれこそ、目の前が真っ黒になる様な事が続いて起こったけれども、私はそれに対して一つもへこたれず、それこそ今、今の言葉で言うならば、「成り行きをいよいよ大事にさせて貰い。いよいよ神様の働きに間違いのあるはずはない」と言う一念でそこを貫かせて頂いとる。そのことがいっぱい、あの「和賀心時代」には書いてある。私の言うならば、修行時代、苦難時代のことが書いてある。
踏んだり蹴ったりと言う中にあって、やはり神様を求め、縋りぬかせて頂いておる。あれ程の信心してござったっちゃ、こげな難儀な事が次々と起こっておるじゃないか、半年の間に、兄弟三人の葬式をにゃん様な事がおこっとるじゃないか。財産全部打ち振ってしまわんならん様な事が起こっておるじゃないか。それでもやはり、神様の御神意に間違いはない。そこを教祖様のお言葉を借りるとです。「世の中では悪神、邪神と例えば金神様をそんな風に言うけれどもです。
知って行なえば命を取り、知らずに向こうても眼を取ると言はれる程しの、まあ良くない神様。金神様と言うのは、知って向かえば命を取る。知らずに向こうても眼を取る。と言う程しの悪神、邪神の様に言うその金神様に向かってです。そう言う人に命を取ったり、眼を取ったりする程しの力のある神様なら、また人の命を与えて下さる事も、人の眼をまた与えて下さる事も出来る神様には違いはない」と、そこんところに、教祖様の信心の素晴らしいところがあるんです。
私も例えて言うならば、次々と難儀な、もう人生、人間の一番難儀な苦しい事に直面してもです。神様の働きには間違いはないと言った様な、まあ美しい言葉じゃなかったでしょうけれどもです。まあ言うなら、こっちの信心が足りんからだと言う様な生き方で進ませて頂いておる内に、今日の様なおかげが、私が助かる。大坪一家が助かるじゃない。沢山の人が助かる様になって来たのです。
悪神邪神と言う様な神様でも、そう言う働きを持ってござる神様に違いはないから「お向きを変えて下され、お向きを変えて下され」と言うて、その金神様へ向こうて行かれた。そしてその金神様が段々と、向きを変えておいでられて、向きを変えてしまわられた時に、初めて天地金乃神と名乗られた。その天地金乃神様はもうそれこそ、慈願が溢れるばかりの親の情親情を以て、私共に接して下さる神様だと言う事が分かられた。
だから悪神邪神と思われる様な時、信心するのにどうしてこんな事がと言う様な時を大事にして、信心を進めて参りますとです。もうはっきりそこに、もう心で体で分からせて頂く、「成程親神様だなあ、成程神愛だけしかないんだな、この世に難儀はない。あるものは神様の愛の心だけしかないのだ」と言う様に分かって参りました。今日は三十三節がまあ偉いところへ、こう進展して参りました。
けれども「お供え物とおかげがつきものではない」そんならどう言う信心におかげが付くかと言う事を今日は聞いて頂いたんです。それには私共が最近言われる。いよいよ「願いの信心」言うなら縋らずにはおられない言う信心。なら縋らずにはおれないと言う信心はです。親子の親情が通う様な信心とはです。叩かれる手の下からもです。やはり親であると言う実感が湧いて来た時に。
初めて「願うた事が右になろうが、左になろうが、神様の御都合に違いはない」と信じれれる信心からです。そう言う信心が、繰り返されて行く時にです。初めて親様だなあ、親神様だなあと言う事が分かる。その頃にはです。初めて神様と、私共との交流がです。言うなら、お金ならお金の場合でもです。「はいこれ使うとけ」と神様が財布を預けて下さる様な、その代わりこちらのものも、なら全てが、御初穂として奉れる様な、心の状態が交流する。
そこから神様と私共が、言わば親と子が財布は一つで良いと言う様なおかげが受けられる様になるのです。天地金乃神様のお喜び、金光大神の幸せ、大坪先生の楽しみ、いわゆる「神と金光大神と大坪先生が三位一体となって」と言う風に、この手紙は表現してございました様にね、そう言う三位一体に頂けれる、言わば信心を目指しての信心でなからなければならないと言う事でございます。
どうぞ。